70歳を迎える神山にあかりを灯す人たち

あの頃と今の私をつなぐもの〜Bridging Old and New

今年は、昭和元年からちょうど100年目にあたります。神山町は、今から70年前の昭和30年(1955年)に、阿野村、鬼籠野村、神領村、下分上山村、上分上山村の5つの村が合併して誕生した町です。神山町制70周年を迎えるにあたり、各地域に暮らす方々に、合併した当時の人の様子やまちの移り変わり、そして、未来へ残していきたい伝統・文化などについて、語っていただきました

上分 阿部 孝史 さん 81歳(当時11歳)

広報編集委員撮影

若い人が美しい自然に触れられる観光地に

70年前の記憶はありますか?
 上分には多い時で3,600人もいたので、賑やかでした。川又には、病院が2軒、旅館も3軒あったし、他にも泊まれるところがあった。剣山の夏祭りに合わせて、たくさんの人が前泊して、朝から県道をぞろぞろと歩いていましたね。
 子どもの時には、鮎喰川に一日中いて、上級生が泳ぐのを教えてくれたので、魚を追いかけ回るぐらい遊んでいました。春には年上の子と遊山箱を持って、山桜を見に山を登ったり、ワラビを採ったりしていました。
上分で守っていきたいものは?
 黒松八幡神社のお祭りで、高齢化や人手不足で、ここ最近はお神輿を車に載せて巡行していましたが、2年前から、地元の若い人たちを中心にお神輿を担ぐのを復活させたんです。新たにこしらえた法被を着た担ぎ手の掛け声とともに、神輿がまちを練り歩くのを久々に見れて、嬉しかったです。
 上分花の隠れ里は、昭和33年に、妻が子どもの頃に小学校で買ったつつじの苗を植えたのがはじまり。年々つつじは増えていって、平成15年につつじ祭りを開催して以降、今は多い日には1,000人も訪れるほどに。上分には雲早山や神通滝、江田の棚田の他にも、夜空がきれいな峠など、まだまだたくさんの観光名所があります。若い人たちに、このまちの美しい景観にもっと触れてもらいたいですね。

色とりどりのつつじが咲き誇る花の隠れ里 (町民の方より提供)
神輿担ぎが復活した黒松八幡神社のお祭り (町民の方より提供)

下分 南本 芳男 さん 81歳(当時11歳)

広報編集委員会撮影

神山の伝統芸能を披露する場をつくりたい

70年前の記憶はありますか?
 お正月に学校に来て、先生から紅白まんじゅうをいただけるのが一番嬉しかったですね。親が農業をしていたので、学校を早帰りして麦刈りするのを手伝うこともあって、それが楽しかったのを覚えています。
 運動会はすごく活気がありました。全校生徒が最高で600人ぐらいいたし、教室から溢れ出るほどたくさんの家族や地域の人たちが、窓から首を突き出して応援してくれたんです。

神山はどんなふうに変わってきた?
 道路が良くなりました。昔は道が狭くて、乗用車同士が対抗できないくらいで。生活圏は広がって、買い物に行きやすくなった一方で、地元のお店が寂しくなっていった気がします。

未来に残していきたいことは?
 地域の活性化を目的にして、平成12年に下分七夕祭りをはじめました。より大きな祭りにしたいと思って、七夕飾りで有名な仙台や平塚まで奔走したことも。城西高校神山校や神山まるごと高専の生徒さんなど、若くて元気のある子たちが地域の人たちに混じって、精力的に設営の準備を手伝ってくれるのはありがたいですね。
 これからは、七夕祭りだけでなく、踊りや獅子舞など、神山に残る伝統芸能を披露する場をもっとつくるべきです。神山町全体で文化祭のようなイベントを開いて、各地域の会場を巡るようにしたら、かつてのような賑わいが復活してゆくきっかけになるのではと思います。

下分七夕祭り期間中の下分地区の様子 (広報編集委員会撮影)
七夕祭り期間中には、辰の宮の大楠も青々と生い茂ります (広報編集委員会撮影)
吹き流しなど迫力のある七夕飾りを観るために大勢の人が訪れます (広報編集委員会撮影)

神領 倉良 隆英さん 74歳(当時4歳)

広報編集委員会撮影

まちの行事でアイデンティティが芽生える

合併した当時、楽しかった思い出は?
 川原にまだ草が生い茂ってなくて広かったので、ソフトボールをしたり、凧揚げをしたり。山では、竹で草鉄砲をつくって、ジュズの青い実を飛ばしたりして、近所の子どもたちと一緒に遊んでいました。また、小学4年生ぐらいの時に、フジペットというおもちゃみたいなカメラを買ってくれて、よく友達を撮影していたのを覚えています。フィルムケースに塩を入れて、イタドリを採って食べるのも楽しみでしたね。
 劇場寄井座で映画を観に行くことも多かったです。昭和30年代には、寄井商店街に鍛冶屋さんや傘屋さん、的屋さんなど、いろんな職業やお店があったし、お祭りや行事も多くて賑わっていました。特に盛んだったのが、高根の初午祭の売り出しの時。食器屋さんや植木屋さんが出店して、あちこちで値段交渉する声なんかも聞こえてきて、楽しかったですね。

大衆文化の中心地だった劇場寄井座 (町民の方より提供)
遊び場となった山や川 (広報編集委員会撮影)

今後どんな神山になってほしい?
 まちの外から移り住んでくる人が多くなった反面、ここで生まれ育った人がだんだんいなくなってきたのは寂しいですね。神山で住んでいるからこそ、自分の生い立ちを見つめながら、地元の歴史や伝統行事を勉強しておいた方がいい。神領なら神領の約束事がありますよね。伝統行事を行うことで、知らず知らずのうちに、そのまちの住人たるアイデンティティが芽生えてくるんだと思います。

現在の寄井商店街の様子 (広報編集委員会撮影)

鬼籠野 橋本 純一さん 93歳(当時23歳)

広報編集委員会撮影

一致団結して、すだちを継承してゆく

合併した当時のことで覚えていることは?
 ガソリンの代わりに木炭などを燃やして走るバスが、まちをゆっくり走っていました。あまり多くの人が乗ったら走らなくなる車で、今は養瀬トンネルがありますが、旧道を走っていた頃は、坂道の途中で止まってしまい、みんなで降りて車を押したりしていましたね。

当時の町並みも残る鬼籠野の旧道 (広報編集委員会撮影)
人々の暮らしを支える国道438号線 (広報編集委員会撮影)

鬼籠野で時代とともに変わってきたことは?
 代々農家なので、畑で麦や芋をつくっていたし、桑を育てて養蚕も盛んでした。それが次第に売れなくなってしまった。この地域で何をしたらいいのかと仲間と相談した末に、すだちの古木を持っていた家があったので、昭和31年にすだちの集団栽培をはじめることに。でも、梅が青いダイヤと呼ばれて高く売れていた時代で、周りからは「すだちなんかをつくってどうするの」って笑われたりもした。最初はあまり相手にされなかったすだちが、徳島市内や大阪の飲食店や料亭で評判になって、だんだん売れるようになっていったんです。

これからの未来に残していきたいものは?
 鬼籠野の地形がすだちの栽培に適していたんですね。生活のために、試行錯誤していろんなものをつくってきたけれど、残ったのがすだちです。鬼籠野のすだちにかなうものはないですよ。将来のために後継者を育てることも簡単ではないですが、今こそ地域のみんなで一致団結していくべきですね。

神山を代表する特産品となったすだち (町民の方より提供)

広野 阿部 久 さん 94歳(当時24歳)

広報編集委員会撮影

愛すべき故郷だから、元気を取り戻したい

合併した当時の楽しかった思い出は?
 広野青年団の団長をやっていました。当時は人口も多かったし、青年団だけでなく婦人会も消防団も元気でしたね。夏祭りは元々神領でやっていたんですが、昭和25年ぐらいに、青年団や芸能振興会が中心となって、広野で夏祭りをするようになりました。打ち上げ花火もずっと続いています。
 それから、青年学級という講座を、週1回開いていました。学校の先生や役場の人を講師として招いて、野菜の育て方を学んだり、俳句を習ったり、地域の人が集まって、幅広い分野で勉強できるので、おもしろかったです。

鮎喰川には当時の美しい風景が残る (広報編集委員会撮影)

これからの未来に残していきたいものは?
 広野のまちは鮎喰川を中心に拓けています。子どもの時は、夏休みには朝から晩まで鮎喰川に入って、魚を穫って遊んでいました。神山森林公園も同じく神山の宝だと思っています。
 20歳の時に青年学級で習いはじめた俳句を、今も趣味として続けています。この土地に暮らしているからこそ詠める句がある。同じ広野の風景を見て詠んでも、やはり若い頃に詠んだ句は、我ながら元気があって生意気ですね。
 広野は、地域と学校の運動会が一緒になって行われています。子どももお年寄りも、地域の人たちみんなが寄り合って、三ツ拍子や四ツ拍子など神山踊りを楽しんでいる。愛すべき故郷だからこの風景がずっと続いてほしいですね。

春の桜で色づく神山森林公園 (広報編集委員会撮影)
多世代の交流の場となっている広野地区運動会 (広報編集委員会撮影)

阿川 相原 久子 さん 77歳(当時7歳)

広報編集委員会撮影

隣近所の人たちとの交流は、幸せをもたらす

合併した当時の記憶はありますか?
 火の用心の歌のことはよく覚えています。昔は風呂場の焚き口などが原因で火事がよく起こっていたから、先生が考えてくれたんですね。阿川地区のあちこちにある高台や公園に子どもたちが集まって、17時になったら、みんなで一斉に大きな声で歌っていました。
 昭和45年に二ノ宮から松尾の方に嫁いでから、隣近所3軒ぐらいの人たちとの交流がずっとあったんです。珍しいおかずやお寿司などをつくったら、取りに来なよっていつも言ってくれて。私の方もつくったものをお返しに持って行く。年上の方とそういう交流ができていたのが幸せでした。

東代次から現在の二ノ宮地区を望む (町民の方より提供)

この先も守っていきたいものは?
 柳水庵の掃除をはじめたのは、空海の道ウォークの時にお接待をする計画を聞いたのがきっかけ。松尾地区の人たちに呼びかけたら、15人も手伝いに来てくれて、本当に嬉しかったですね。それから当番を決めて掃除していましたが、みんなも高齢になり、だんだんと行ける人も少なくなってきて。柳水庵の掃除も空海の道ウォークのお接待も、集落支援員さんや福原の人たちにも協力してもらえて助かっています。最近は、お遍路さんでも特に外国人の方がたくさん歩いているのを見かけるようになりました。これまで参加できて楽しかったし、元気に過ごせているうちはずっと続けていきたいですね。

相原さんが参加している柳水庵清掃の様子 (広報編集委員会撮影)

撮影 / 生津勝隆

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